2016.12.31
第4回 担当 宇田川森和
現代詩人の守備範囲を昭和初期から敷衍し、代表的詩人の作品から「新しいことば」探しをしてみる。

やっぱり I was born なんだね —吉野弘

吉野弘(1926〜2014年)
多くの詩人は、「戦後」派である。そこから、ざっくりいえば、「現代詩」が芽生えたが、その色は百花繚乱、色とりどりだった。
吉野弘をして、どういう系統の詩人と称するのは難しいが、あえていえば、「自然派」である。風景の描写に余計なフィルターをかけないという意味で、自然で、ありのままの感性で受け止めている。
1957年私家版「消息」、翌年「幻・方法」を上梓しているが、「詩では飯が食えない」とコピーライターを生業とした。そのころ、サラリーマン生活から脱出している。
詩的活動の拠点としては、詩誌「櫂」に参加したことで、ここで、川崎洋、茨木のり子、谷川俊太郎、大岡信らとの親交が始まった。
表題の作品は、「I was born」からであるが、吉野弘の詩人としての原点となるべき作品となった。詩誌「詩学」で新人として推薦されたのだ。
以後の活躍は広く知れ渡っているので、割愛。

空の奥から飛来し 青さに透けて 明るいだけであった —佐藤登起夫

佐藤登起夫(1931〜1986年)
ハタチ過ぎに、酒田(山形県)在のサークル詩誌「谺」に参加。ここで、吉野弘、大滝安吉らと知り合い、詩作に励む。3年後、同誌に、「佐々都四男」のペンネームで、エッセイを書いた。ペンネームは、四人兄弟の4番目だったことから名付けたらしい。その間、結核を患い、入退院生活を繰り返すが、この年、24歳で税務署に復職した。活動は「谺」を中心とし、1978年、私家版「鮭の旅」を上梓、活動の舞台は詩誌「なんてらかんてら」に移行した。46歳だった。1982年には「吉野弘」論の連載し、10回まで続けたが、完結ならず。
1986年、「火立木」23号にて「佐藤登起夫」追悼号、1992年には、富樫庸編の「虹ふたたび」の追悼編集をしている。
ここに寄稿した吉野弘は、詩誌「谺」に参加したのは、結核患者のつながりと、「谺」をサークル詩誌と位置づけ、世の中のサークル詩運動、「厳密には、文学運動というよりむしろ生活の自覚化運動と呼ぶべきもの」と記している。
多くの人が、貧困にあえぎ、生活に窮していた戦後の日本を背負っていた。国民病といわれた「結核」も、「貧困日本」を象徴していたのだ。
表題の作品は、「朝の虹」から。急逝の1年前、「火立木」22号にて発表したもの。

担当者プロフィール
宇田川森和(うたがわもりかず)
1948年、山形県酒田市出身。関西大学卒。現在リトル・ガリヴァー社編集人。
20代より、小説・詩集を刊行し、本格的に刊行したのが、エッセイ「夢で会いましょう」(1991年、編集工房ノア)
主な著作「はいばらのそら ケルンのそら」(1987年、同)
詩集「レクエイム」ほか、数冊
電子版「炎の十字架」「ビィーナスの涙」「華の乱 小説通天閣」「天神橋六丁目界隈」ほか