濱口 隆義(はまぐち たかよし)
1953年1月20日生まれ、兵庫県出身
国立児島海員学校卒
鄭承博(チョンスンバク)に師事する。

主な発表作品
『游泥の海』・第65回文學界新人賞佳作
『夏の果て』・第67回文學界新人賞
『海籠り』文學界(平成三年12月号)
『蒼い夏』海燕(平成七年6月号)
『赤い夏』海燕(平成七年7月号)
『黒夏』海燕(平成七年8月号)
『銀色の夏』海燕〈近現代日本文学史年表記載)
『一九九五・一・一六』連作短編・すばる〈平成八年8月号〉
『海暦』すばる〈平成九年5月号〉


最初に、濱口さんが文学界新人賞を受賞された「夏の果て」という作品はどんな作品ですか。
『香月』という架空の土地を舞台にして、悩める漁師の青春群像を描きました。辺境の地といえども、時代の波は確実に押し寄せてきて、しかもその波は、弱まるどころか反対に強さを増して『香月』に生きる青年達を翻弄するんですね。嫁不足も深刻な問題でした。私はそこに光を当てました。


新人賞の選考委員からは選考にまつわるお話を伺ったという話を聞いていますが。どんなお話だったのですか。
第65回で佳作入選した『游泥の海』ですが、少年たちが浜辺に打ち上げられた銭を拾う描写があるんですね。授賞式の時に畑山博さんから、前回の当選作にも似た描写があり、その点を尋ねられました。事実だとお伝えすると、畑山先生は、実はそれが引っかかり、あの時、推せなかったのだとのことでした。人に「運」があり、作品にも「運」があるのだと知りました。


受賞を契機に、作品を発表された。著者としての意気込みとか、大きな目標があったのでは。
取り立てて意気込みとか、大きな目標があったわけではないのですが、『游泥の海』が本来の自分であり、『夏の果て』が背伸びした自分であったことに気づき、何年も悩みました。今はただ、自分の小説世界を、如何に未完に大きく終わらせるかに専念したいと思っています。


今回、「運命の日」と「游泥の海」(海三部作)を立て続けに単行本化される。そのために、加筆修正されたと聞きます。
この時期に刊行されるというのにはなにか理由とか、動機みたいなものがあったのでしょうか。
文学の盟友である門康彦淡路市長を通じて文学に造詣の深いT先生と出逢えたことが大きな転機になりました。過去の発表作を読んでくださったT先生は、懇切丁寧なアドバイスをくれ、私に、過去と対峙する胆力と、未来に臨む勇気を蘇らせてくれました。T先生に出逢うことがなかったら、私はおそらく、ただ小説の腕を磨くだけの頑迷な人間で終わっていたと思います。


加えて、この新作の内容はなにがねらいだったのでしょうか。
「人間の生きている光景」には、個々の力ではどうすることもできない「運命」などと呼ばれる大きな力が作用し、様々な悲喜劇をもたらします。T先生のアドバイスを受けながら、私は今回の『運命の日』でそういう眼に見えないものの可視化を試みました。


プロフィールによると『裸の捕虜』で第67回芥川賞候補となった鄭承博(チョンスンバク)氏に、師事したとありますが。
巨きな人でした。文學界新人賞の選考委員が第67回芥川賞受賞者の畑山博さんでした。不思議な縁を感じました。鄭先生は、多くを語らないことで多くを語る人でした。私には今も、日本人と朝鮮人の民族的な触れ合い、在日朝鮮人の民衆史的な作品を描き続けられた鄭先生のその声が聞こえてきて、これからもっと評価されていくべき作家であると思っています。


『断崖に立つ女』の著者である喜多圭介氏との思い出がたくさんおありだとお聞きしていますが。
喜多さんと長年文学を通じて友情を深めてこられたことを、私は心から感謝しています。そして今も私は、喜多さんと共に文学の道を歩んでいるのだと思っています。二人で鄭先生の夜とぎをした時、何時の日か、海峡を渡って鄭先生のふるさと韓国慶尚北道安東郡を訪ねようと約束しました。私はいずれ近い将来、喜多さんとの約束を果たそうと思っています。


最後に、いまさかんに創作に励まれている新人未満の方々に、新人賞を射止める秘訣のようなものを伝授してください。
私からは何も申し上げあることはありませんが、第65回文學界新人賞の選評に、宮本輝先生が、「……いかなる時代にあっても、我々はビールの泡だけでは酔えないのである」と書かれています。私は、今も、この言葉を胸に創作に臨んでいます。