阿波野ひみ子(あわの ひみこ)
1937年7月、徳島市に生まれ、その後北京へ。
徳島県立城西高等学校卒、徳島県立保育専門学院卒。

歌歴
17歳から恩師の薦めで、「徳島歌人」「砂廊」(現在は作風)などへ入会
現在、大阪歌人クラブ理事、関西短歌雑誌連盟委員、日本短歌協会正会員、新日本歌人協会全国幹事、うた野の会編集発行者
主な著書
鶴野佳子歌集「花あかり」「雪の記憶」「あるいは。」「人魚の鱗」等。
ほかに「日本女流歌人選集」(短歌ミューズ社)「斜面の上の作家」(短歌新聞社)自歌自註「相聞」(短歌新聞社)「戦後歌人名鑑」(短歌新聞社)「現代の秀歌500」(短歌新聞社)「短歌歳時記・下」(短歌新聞社)「昭和万葉集」(講談社)および合同歌集いくつかに参加。


歌人「鶴野佳子」さんが初めて書き下ろしのエッセイ集をまとめることになりましたが、これには出版社であるわたしの「くどき」が成功したからとどこかで書かれていました。本音のところはどうなのでしょう。
それ本音です。まさか、短歌に関わること以外に価値が自らはつけられませんでしたから。短歌なら、短歌入門の文章も書けば、歌集評も書けば、歌人論も書いてきましたが、遊び心で始めた、息抜きの場のブログの文章が、本にできるなど、寝耳に水でした。まだ、半信半疑です。


ブログでは「阿波野ひみ子」を名乗っておいでですが、ハンドルネームにはこだわりがあるのですか。
育ったところが、阿波の徳島で、卑弥呼伝説のある地域なのです。でも、わたしは歴史学者ではないので、卑弥呼伝説をどう喧伝すればいいのかわかりません。阿波の卑弥呼伝説を、せめてハンドルネームにして応援できればと、晴れがましいハンドルネームと相成りました。


原稿を拝見し、ひみ子さんの体験されたことは、ほぼ奇跡に近いものを感じます。それでもしぶとく生き抜かれたことの、その原動力はどこにあるのでしょう。ただ「女の強さ」だけではないような気がします。
そんなに強いとは思っていません。ただ、子供が幼かった時は、子供を置いて死なないと決めていました。そして、周りの人々に支えられ、助けられ、勇気づけられてきただけです。その上、見えない力、亡父母の魂や亡くなられた近しい人の心に守られて、現在があるように思います。般若心経にも教えられましたね。それと、わたしは根っからの楽天性でしょうか。


原稿の校正をすすめている途中、盟友喜多圭介氏の訃報が舞い込んできました。その経緯は本稿で詳しく触れていますが、文学仲間としての喜多さんは、一言でいえばどんなお人と見られていましたか。
難しい質問ですね。私の短歌を愛してくださり、おおっぴらに、公に過大評価してくださいました。文章を評価してくださったのも喜多さんで、もっと書き進めろと、背中を押してくださったのも彼でした。文学仲間を育成する能力がおありだったと思われます。意外だったのは、彼の小説から受けるデリケートな感じではなく、優しくて物静かで、楽しそうな笑顔でした。


今回のエッセイ集は、小説と随筆という組み合わせになります。歌人としては、このような内容をしたためることの難しさのようなものを感じられましたか。
いいえ、ひたすら、楽しかったです。


ひみ子さんのブログ人気は凄いものがあります。これらをひっくるめて、これからの創作活動の展望をお聞かせ下さい。
創作活動の展望ですか?畏れ多い!どうしましょう。  短歌も、エッセイも、自然体で、肩に力をいれず、書きたい物だけをありのままに、今まで通りに書いてゆきたいです。書きたい衝動を受けたその感動を正直に、自分の心に嘘をつかないで、作品化していきたいです。今までと変わりたくはありません。自分の心を絶対裏切りたくないのです。