大山真善美(おおやま ますみ)
1961年山口県阿武郡むつみ村に生まれる
1984年上智大学外国学部英語学科卒業、中学校教師になる
2004年国民文化祭やまがた入選
岡山大学大学院教育学部終了 快福屋開催
2008年快福屋を法人化する

主な資格
英検1級、通訳案内業国家試験合格
主な著書
「教師になったら読む本」
詩集「シンデレラの離婚」
「試験に合格する本」
「離婚時代」
その他
国民文化祭やまぐち「第21回国民文化祭実行委員会会長賞」受賞(朗読部門)
国民文化祭とくしま「徳島県詩人協会会長賞」受賞
「学校の裏側」出版 広島県民文化祭「実行委員会会長賞」受賞
「学校の裏側」中国新聞連載
原爆詩一八一人集の翻訳に参加
詩誌「火皿」参加
公式サイト http://ooyama-masumi.com/index.php?FrontPage


大山さんの履歴を拝見すると、長く教員生活をされ、その後、独立されたとお見受けしますが、教師を辞められたのはなにか理由が。
突発性血小板減少症とC型肝炎になって、体がボロボロになってしまったからです。
病院では、脾臓摘出か、骨髄移植だと言われました。(先に突発性血小板減少症になったので、インターフェロンは言われませんでした)。
そんなことをしても、どうせ死んでしまうと思って、教師を辞めて、自宅療養しました。
Oリングテストといって、自分の指の力の強弱でする一種の占いがあり、それで反応した整体院に通いました。
成果が大きかったのでそのまま(体ボロボロのまま)、その整体院に弟子入りしたのです。
整体師になると、自然に血小板も増え、いつの間にかC型肝炎も完治していました。
今から思えば、天の采配だったのでしょう。
自分は整体師としてやっていくさだめだったのだと思います。


その後、元教師の立場から、「試験に合格する本」「学校の裏側」等、学校・教育にかかわる著述を出されている。
教師的視点から見ると、いまの教育現場はどう見ていますか。
わたしなんかはなにかおかしいのではと思うのですが。
教育現場は「事なかれ主義」です。
人口の数パーセントは犯罪を犯すし、ほとんどの人間は間違いも犯します。しかし、「子どもは天使」「教師が人格者だったら、子どもは真っ直ぐすくすく育つ」という間違った思い込みがあり、何か「間違い」があると、その学校やその教師の責任だととらえられてしまいます。
従って、犯罪やらいじめやらをもみ消す方向に学校の全精力を傾けます。
また、「いじめられた側にも責任がある」というわけの分からない論理があり、(性犯罪にあったのは女性が挑発したのだろう、とか、万引きされた側の店のデイスプレーの仕方に責任があるとか、外国人だから、さみしいから幼女を誘拐したのだろう、とかいう論理と同じです)
いじめは、強い生徒側に教師も学校側もついて、いじめの正当化を始めます。人権侵害です。道を歩いている人に、石を投げたり、その人のノートを破ったり、「バカ」と落書きしたりしたら、法律で罰せられます。しかし、学校でそんな犯罪行為が行われても、「○○君にも原因があるから」という論理の通らないことを教師が説教し、いじめがなかったことにされるのです!!

「喧嘩両成敗」と教師たちは言います。喧嘩なんかではないのです。喧嘩だったら、A君が負けることもあればB君が負けることもあります。いじめは、常にA君が負け、常にA君が殴ったり蹴られたりバカにされたりし、常にA君が衆人環視の中で自分の地位の低さを思い知らされることなのです。
この犯罪行為である「いじめ」を、教師たちは全身全霊で止めなければなりません。
今の学校は、大きな勘違いをしています。自分たちが子どもの全てを決めるという驕りです。子どもには、すでに生きる力が備わっているのです。いじめのない環境、平等で公平な環境を与えて、過ごしやすい場を提供することに徹していけば、信頼と安心がある場では、すくすく子どもたちも育つのです。北風のように「勉強が、成果が」と子どもたちを追い詰めて、陰でコソコソいじめをする風土を助長しているように思えてしまいます。


大山さんのイメージとして「詩人」としての作品を多数手がけられ、かつ詩集も出されています。詩人として、なにを書きたいか、なにを訴えたかったか、というテーマにもなりますが、ここにはどんな意図があったのでしょう。
私の詩集を読んで、「霊的なものを感じる」「真っ暗だ。漆黒の闇だ」と怖がられるかたと、「大人の女性の視点で書かれている貴重な詩だ」と思われる方とに二極化しています。
自分は職業として占い師をしていますので、どうしても人類が現れたころのアルタミラの洞窟のような闇にアクセスする機会が多くあり、人類の集合的無意識であるとか、言葉にされない宇宙の気配のようなものが降臨してくるのです。そこが、ある人々にとっては「怖い」と感じられるのでしょう。
また、離婚を経験しましたので、ハッピーでわくわく♪というポジティブシンキングでは乗り切れない、自分ではどうしようもないような運命のクレバスに落ち込み、そこから這い上がるために詩が必要であったという経歴もございます。
訴えたかったのは、人間というものです。私が常に興味があり、愛するのは人間です。人間は、裏切りもしますし、苦しみもします。しかし、綺麗な心ももっていますし、崇高なものや美しいものにも憧れます。
詩というのは、詩人の身体を濾過して通過したものしか生きた言葉として書かれません。人間の小さな頭で「つらいとは、こんなものだろう」「悲しいとは、こんなことだろう」といくら考えても、やってみないことには分からないのです。いったん受け止めた巨大な経験は、涙を流しながらも血肉となり、言葉の奔流となって詩人を通過して人々に届けられるものです。
私は、限られた経験しかしておりませんが、そのときの自分の真実から目を逸らさずに、つらい・悲しいということを全身で受け止め、そこから魂が叫びたいことを文字に翻訳してきたつもりです。


今回、新しく詩集をまとめるに当たって、強いメッセージのようなものはおありですか。詩でなければ、ならない強いものが。
しんじつ、本当のこと、魂のさけび、そういったものは、詩という媒介が一番運びやすいものであると思います。短歌では短すぎる、小説では長すぎる。友人が「あなたの詩は映画の断片を観ているようだ」と言いましたが、まさに、人生の一断章をそっくり立体のまま切り取ったのが詩だと思います。
説明ではない、日記でも感想文でもない、詩は咆哮、絶叫、絶唱ですが、それを生のまま書いても読んでいただけない。言葉にならない感情や感動を何とか言葉に置き換えたもの、ある時、ある日時の人間と言う媒体の存在する空間の一断章をえぐり取ったもの。泣き叫び、のた打ち回っている人間の存在そのものを、背景ごとごそっと掬い取ったもの、それが詩だと思います。
今回、詩集にまとめたのは、思うようにならない男女間をはじめとする人生の諸相です。詩という形にできてから、自分の中の重いものが初めて昇華され、皆さんのもとに届けられるという安堵感がありました。


著述業のかたわら、大山さんはさまざまの活動をされています。ある意味、すぐれた才能、すぐれたスキルのなせるわざだと思いますが、目指すところのご自分がやりたいことはどこにあるのでしょう。
詩人としての活動も含めて、将来のビジョンなるものをお聞かせ下さい。
ありがとうございます。目指す所は、人類の向上です。留学生援助などをしたいとずっと思っていました。整体では、僻地で医者がいないところでもできる治し方を広めていきたいと思っています。
詩は、もっとポピュラーで人々の笑いや救いとなる分野になりうると思います。
また、親からの独立の仕方であるとか、自己否定を軽くする本を書きたいと思っています。